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FUYUU

20160405


若さとはこんな淋しい春なのか /住宅顕信

角砂糖なめて終わってゆく春に二十二歳のシャツ脱ぎ捨てん /俵万智
 
春の唄はどうしてこうも青いのだろう。
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気づけば冬の鬱々しさは春の風に絡めとられている。何もかもがこうして過ぎ去り、この春の私の22歳は、もう二度とやってこない。これはきっと、でも、たぶん、でもない。必ずの、不可逆の。去年の春の気持ちは、変わらず鮮明に思い出せるような、全く思い出せないような、思い出したものが本当に去年の春の気持ちだったのか確かめようもなくて、私たちの記憶はどこに保存されてるんだろう、と気になっている。私が絵を描くのは、私が頼りないからです。ここにいる私は、いまにも消えかかるような希薄さで作り上げられているからです。どんなに描いても、描いても描いても、私の領分は変わらない。白い紙に描かれたそれは、私に似た何かの、私とはかけ離れた物質。これって、一体どういうことなんでしょうか。この妙な気持ち、これを伝えようとするとき、みんなは、わからないね、と言う。というか、私もわからないよ、何にもわかってない。でも、わからなくて良かった、そう思えることは、みんなにもあるんじゃないだろうか。あまたのわからないことで世界が満ち満ちていて、私たち同士は案外遠くにいる、その事実が、自分自身を助けたりするんじゃないだろうか。あらゆるわからないに対して、うんざりしたり、いらだったり、かなしくなったりするけれど、それでも懲りずにわからないを交差させていく、それは、交差の隙間から透過する光の、一瞬のきらめきを信じているからじゃないだろうか。交差の連続が、意思のうねりが、その波、ちらつく光、進退のわからない海のような日々、これこそが私たちの世界に他ならないのではなかっただろうか。