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FUYUU

20140907 (2)

夏が終わろうとしている。ヒグラシの声も聞かないまま。熱い日差しも思い出せないまま。どういうことか今年の夏はどこへ行っても倦怠感と閉塞感がたちこめていた。それが私の気分の問題だったのか気候の問題だったのかはっきりとはわからない。もしかすると不意に秋の風が吹いてきてしまったからそう思うのかもしれない。この夏は文を書くことをすこしやめていた。やめていた、というのは正確な表現じゃない。やめるもなにもたくさんの言葉は毎日毎日、頭の外側も内側もぐるぐると回り続けていたし、流れ出る言葉をノートやパソコンに書いてみたりはしていたのだけど、なぜだかいつも途中までしか書くことができずにいたのだ。考えが足りていないのか頭がショートしてしまったのかは自分ではよくわからない。ともかく中途半端な気分に侵されていた。そして今も尚その気分は続いていてたまらないなあと思う。つい先日横浜に行ったが、横浜の海はぬめぬめと光りながら深い緑と灰色で閉じていて、そんな海を上から眺めていたらふと、海に飛び込んで自殺する人の気持ちがわかった気がした。海に溶けてしまいたいような、青い闇に吸い込まれていきたいようなそんな気分。広い自然の中で死ぬのも案外悪くないかもしれない。どうせこの社会では全てが茶番になって何もかも飼い馴らされてしまうのだから、最後くらい自由に溶けたって。なんて厭世的なことを言いつつ、実を言えば私は死にたいような気分がわかるだけで本当に死にたい人の気持ちなんてまるでわからない。この世界は、とりわけこの日本という国は、退屈でみんな死にたくなってしまう。時折退屈さに身を委ねてみたりもするけれど、この退屈さの中では何も不満がないことに満足できない愚かさを背負うことしかできない。未来という言葉が陳腐に鳴り響いているうちは今日の自分自身のことすらどうすることもできないとわかりつつ、輝かしい明日はそう見えずにいる。退屈が蔓延する電車の窓から見える家々の無数の明かりはどことなく寂しげで、それでもどこまでも輝く東京の光を嫌いにはなれずに、その光の一粒一粒の切実さに思いをはべらせてみたりする。切実なんてどこにもないという声には耳を塞ぎながら。例えるならば私たちは、氷の上に腹ばいになっておどけて滑ることしかできないのだ。ほんの少し溶かされた表面を滑ってみせることしか。それしかできないのだけど、別にそれでいいのだと思う。氷を割って溺れ死んでしまうようなことは私たちにはできないのだからそれで。いたずらに輝く光と人々のよどみを憎愛しながら、こんな滑稽で惨めな平和の中で私が願うことといったら、薄く溶かしたまずいインスタントコーヒーみたいな生き方はしたくないということくらいだ。今日は雨が激しく降って道路ではまるで沸騰したみたいに水が跳ねていたけれど、ビニール傘をつたう水と皮膚につくひどい湿気は冷たい熱気を私に差し込んできた。草の湿った青い匂いが、明日に思い馳せることもなくただ目の前がキラキラしていた懐かしい景色を思い出させた。

 

                  ―—夏の記憶/残照