N / N

FUYUU

20160310

あなたのわたしと私のわたしは途方もなく違います。それと同じようにわたしのあなたと貴方のあなたでは途方もなく違うのかもしれなくて、隔たり、その遠さすら不明です。細心の注意でもって臨みます、隔たりのもやを水に戻す、その一瞬一瞬について。その水滴、温度、水のゆくえについて。あなたはこうして私のあなたになりますが、あなたのわたしは一体どうして掬われているのですか。あなたは私の何を、掬っているのですか。その、あなたのなかにあるわたしは、あなたが掬っている経験の一部であるわけですが、それはあなた自身とどう違うのですか。掬われた私は、あなたのわたしを獲得する、それはもう誰でもなくって、強いて言うならあなたに他ならないのではないですか。しかし、だとしたら、私がこうして呼びかけるあなたというのも全て私ということになって、私は私に話しかけているということになります。言葉がもやの水滴のひと粒ひと粒にぶつかり、反射する、戻ってきたときには幾ばくかの湿度が含まれますが、それでは永遠に、水滴は水に戻ってゆかない。届かない、届かない、これは、どういうことなんですか。あなたの経験の、それによるわたしということを、触れるのは敵わない。私はあなたのわたしを見て、それを掬って、私のあなたをつくる、くるりくるりと裏返しの裏返しのようなこの連続が、私をからっぽにしていきます。もやの水滴の密度も、それを水に戻すのも、つまるところ私のさじ加減ひとつであって、この手で掬う水の、水がこぼれる指の隙間を、こぼれた水の流れゆくを、眺めることしかできません。

20160211

ひとつ年を重ねても、からっぽの身体とその重さを持て余すかなしみの量は変わらない。夜はいつだって音を吸い込み、空気に響きを与えているし、闇はしっとりと身体の居場所をつくる。自分が身体を置き去りにしているときは気が付くことができないけど、夜がある限り、太陽と月が繰り返し訪れる限り、今までもこれからも、ずっとずっとそうなんだろう。毎日、自分の身体を引きずることは容易でない。この世界には身体を引き離す沢山の方法があって、一番はなるべく人と関わることで、それも自分と他人の境目をなくしていくための関わりをすること。自分や他人を薄めていくこと。たまにはそういうことも必要だけど、あまりにそういうことを続けていると、簡単に消えてしまう。自分も他人も。誰もかれもが。かなしみを持つこともなくなって、生きるのが簡単なような気分になって、それはたいそうなことだけど、それと引き換えに愛もやさしさもなくなり、なくなっていることにも気付けなくなる。かなしみを持ち続けるのも簡単なことじゃない、そう思ったら夜も淋しさも愛おしい。かなしみの中にはとびきりの暖かさが、かすかな光が、遥かな美しさが、どんなに小さくても絶対にあること、今までの数かぎりない弱さと光、たとえいつか遠くなる日があっても、いつまでも憶えていられる生活を送りたい。それにしても、私はどこまでを憶え、どこまでを伝えていけるだろう。ひとりぶんのことさえおぼつかないのに、他人にもこのひとりぶんはあって、ひとつひとつが宇宙のように混沌さと秩序を携えている。そうやってこの世界には宇宙の中にまた宇宙があって、自分も他人もダークマターばっかりで、そういうのを想像すると途方もなくて、苦しい。届かなくて、届かなくて、惑わされて、それはたぶん私が若いからではなくて、幾ばくか大人になってしまったということだ。私の身体はここにあるぶんの以上でも以下でもない、そんなことを理解するのに22年もかかっていて、今までもこれからも、やっぱり等しく途方もない。

20160117

ずれている
きしきしと音を立てて
ずれている
場所が、からだが
取り戻せない

隣の部屋の明かりも
コンビニの明かりも
きちんとついている
ついている、今日も 

明かりひとつで   
胸がきゅうと鳴る

月はひそやかに
色彩を吸収している
木々は取り戻す
かたちを、沈黙を 

葉っぱが微かに揺れている
けむりは溶け  
肺は冷たさを忘れる

優しい唄は
とおくとおく 
沁みわたる

20160116


黒く重い液体が腹の底に溜まる。そんなこともあった、たしかにあったのです。自分を正当化するなんて、馬鹿なことはしない。ただ、いつもは忘れてるけど、自分にも液体が溜まっているという事実は、やりきれなくて哀しい。文字が、画面のうえを滑る。滑るのは容易なのに、文字は液体に対しては何の役にも立たない。いくら文章を書こうが、何もないところに、また何もないことが重なるだけだ。たしかにあるのは、液体と身体で、今日も内臓は正常に動いている。この身の重さは、やるせなさを増幅させる。いつから。いつから私には私自身が降り積もるようになったのだろうか。光が積もるように、自分自身も、曖昧に積もり続ける。どんなに弱さが積もっても、強くはなれない。ときおり私には弱さばかりが積もっているのだと気づいて、死にそうになる。それだけが、自分を形づくっているように思える。優しさは、脆さの上でしかありえない。みんなの優しさは、液体から出来ている。あの重い液体から。知ってる。知ってる、つもりになってる。みんなことは、何もわからない。私には、何もわからないのです。みんなが、何を言っているのかも、何を考えているのかも、全然わからない。でも、みんなの優しさを知っている。完璧でないことも、液体を孕むことも。私たちはいつまでも、弱い。あまりに弱いので、凶器を覚えることもできるし、感情をごまかすこともできる。それは私たちの日常でもあって、かなしい。とてもかなしいから、私は、お腹の中でとぷんとぷんと揺れる液体を見つめて、ちゃんと優しくなりたい。

20151222

この1、2ヶ月の間、絵を描くのも詩を描くのもやめて、俗っぽい感情に身を任せていた。普通の人が考えていることを、考えるようにして、制作をしない生活もできるのだということ、私は作家でもなんでもない、その辺の人なのだということを、自分自身に教えていた。やってみると、案外すんなり生活ができた。本とスマホがあれば、とりあえずは生きられるような気がする。色んなことに敏感になるのをやめれば、--たとえば街の広告の配置とか、隣に座ってる人の会話とか、イルミネーションの装飾の仕方とか、難しい言葉の意味とか--あるものをただあるように受け止めるようになれば、見ているものを無理に焼き付けようとしなければ、わたしたちはブレることなく、1日を過ごすことができる。昨日と今日の境目も、一昨日と今日の隔たりも、そんなに気にすることなく、終えることができる。明日の予定を詰め込んでおけば、何も考えずに眠ることができる。時折やってくる、何もないという不安さえ乗り切れば。耳に流れてくる音楽も、面白い小説も、手に入れたいほど好きな絵も、私のものではないという絶望を無視することさえできれば。不連続な自分を、つなぎとめる必要など無いのだと、思うことができれば。そつなく存在することを、幸福だと思うことができれば。この毎日に満足することは、そんなに難しいことではない。私が描かなくても絵を描いてくれる人はいなくならない、私が歌わなくても歌を歌ってくれる人はいなくならない、それに安心することができるなら、私はもう筆をとらなくもいい。いい。よかった、という方が正しいかな。きっと、みんなは安心しているんだ、自分たちの外側にも分身は絶えず存在する、ここにいなくても、私たち[みたいなもの]は、消えてなくならない、私たち[みたいなもの]は、私たち[みたいなもの]だから、私たち自身ではなくて安全だ、私も、私[みたいなもの]を、知らずにいればよかったのだ。それらの差異を無視できればよかったのだ。きみとわたしの差異も、わたしとわたしみたいなものの差異も、絶望でない、そう信じる強さがあればよかったのだ。

20151027

サイダーがしゅわしゅわと
音を立てている

彼女の毛先はトゲのように鋭く
透き通っている

見えないのは
顔だけではなく

そんざい

○も□も 
捨てられてしまった  

それは遠くの
私たちがしてしまったのだと
むかし
聞いたことがある

それでも彼女は
明るい  
と言い

見えない顔を必死に
歪ませて
見せた

そうして
私はやっと
瞼の裏に溜まった光を
見つける

サイダーがしゅわしゅわと
透明に向かっている