N / N

FUYUU

20170409

私はこれをやらないと

きっとだめなんですけど

何かに飲み込まれているというか

何かっていうのが何かもわからなくて

こうやって前後不覚になって

しまいには飲み込まれていることも

わからなくなってしまいそうで

私が泳いできたのは何だったの

海のつもりが実は池を一周、みたいなことで

出口がない

渡れるはずの場所が本当はありもしないと

どうしてわからなかったのだろう

アメリカはミサイルを撃って

またわからない世界が増える

 

20160711

 

水滴がつたる

砂糖は水に溶けて透明

1日、堆積の数ヶ月

音は量を増す

速さが焦りを運ぶ

もう何年同じ曲を聴き続けているだろう

過ぎていないと思って

量分を忘れている

いまは2016年、22才の年

遠くが点滅し、滲んでいく

このリズムを憶えている

たくさんの音楽が

殺されないように生きていくには

何をしたらいいだろう

20160622

 

水面に浮かぶ闇と光のこと

ぐるぐると回るのはわたしの世界

インサイドアウトの続き

ピンク色が表出して

行き交うすべての人、色、覆われた布

あるいは金属とプラスチック

重ねられて不透明

眩暈を流しながら歩く

いつのまにか

嘘をつくのがうまくなっている

 

20160517

いくつもの棘の
決別の炭酸水
泥でも水でも森でもいいから
同じになるための
彼女は間違いではなく
それはきっと
代わりにあの人たちが
いなくなればよかったのに
のに
弱いと言われて
あなたのようには
決してならない
あの日
7才は冷酷の夏
 

20160423

 
毎日かいている、言葉を
書ける日と書けない日があって
優しい日も苛立ちの日もあって
昨日の優しさも信じられない始末で
自分の身に降りかかっている
日々のあれこれが
記録をすればするほど遠い
積み上がったはずのあれこれが
絶望的に頼りない
ギターの音は海の光のように
キラキラとしているけど
この音だって天気に左右されて
くぐもってしまうのだから
今この瞬間だけの
若さと薄さだけの
きちんと見失うためのような
絵を、文を、言葉を
描けたらいいとぼんやり思う

20160405


若さとはこんな淋しい春なのか /住宅顕信

角砂糖なめて終わってゆく春に二十二歳のシャツ脱ぎ捨てん /俵万智
 
春の唄はどうしてこうも青いのだろう。
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気づけば冬の鬱々しさは春の風に絡めとられている。何もかもがこうして過ぎ去り、この春の私の22歳は、もう二度とやってこない。これはきっと、でも、たぶん、でもない。必ずの、不可逆の。去年の春の気持ちは、変わらず鮮明に思い出せるような、全く思い出せないような、思い出したものが本当に去年の春の気持ちだったのか確かめようもなくて、私たちの記憶はどこに保存されてるんだろう、と気になっている。私が絵を描くのは、私が頼りないからです。ここにいる私は、いまにも消えかかるような希薄さで作り上げられているからです。どんなに描いても、描いても描いても、私の領分は変わらない。白い紙に描かれたそれは、私に似た何かの、私とはかけ離れた物質。これって、一体どういうことなんでしょうか。この妙な気持ち、これを伝えようとするとき、みんなは、わからないね、と言う。というか、私もわからないよ、何にもわかってない。でも、わからなくて良かった、そう思えることは、みんなにもあるんじゃないだろうか。あまたのわからないことで世界が満ち満ちていて、私たち同士は案外遠くにいる、その事実が、自分自身を助けたりするんじゃないだろうか。あらゆるわからないに対して、うんざりしたり、いらだったり、かなしくなったりするけれど、それでも懲りずにわからないを交差させていく、それは、交差の隙間から透過する光の、一瞬のきらめきを信じているからじゃないだろうか。交差の連続が、意思のうねりが、その波、ちらつく光、進退のわからない海のような日々、これこそが私たちの世界に他ならないのではなかっただろうか。